人生の議事録

やっていることとか、考えたこととか。

小さな不良心

人口1万人にも満たないその町は、

 

海に面していて、おいしい魚が食べられる以外何の特色もない場所だった。

 

そして、町の端から端まで行くのに自転車で1時間とかからなかった。

 

町には小さな小学校と中学校があった。

 

小学校を卒業すると、みな自動的に同じ地区にある中学校へと進学した。

 

そんな港町に住んでいるS君もみんながそうするように、

 

小学校から中学校へと進学した。

 

中学1年になったSの周りで流行っていたのは、もっぱら不良漫画だ。

 

不良漫画の世界では、とにかく喧嘩が強いことがステータスで、

 

敵がどんなに強かろうが挑んでいく主人公の姿に熱中した。

 

当然のようにS君の心にも不良漫画の主人公のような、熱い魂が宿っていた。

 

蟹股で歩いてみたり、カッコいいセリフを真似してみたり、

 

まるで自分も喧嘩が強くなったような気になっていた。

 

しかし、しばらくして気が付いた。

 

なんとその中学校には、一つ上の先輩に空手のチャンピオンがいたのだ。

 

あまりにも異様な雰囲気を放っていたので、

 

その存在こそ知ってはいたものの、

 

まさか空手のチャンピオンだったとは思わなかった。

 

その先輩は別世界の人間だった。

 

元ボクサーの教師と殴り合いのけんかはするわ、

 

何か気にくわないことがあると、その対象を殴るわ蹴るわ。

 

まるで不良漫画に出てくる悪役のようだった。

 

そんな先輩を間近で見るうちに、

 

S君の心に宿っていた不良心はどこかに行ってしまった。

 

「もうこれは完全に住む世界が違う」

 

そう悟ったのだった。

 

しかし、一度だけ勇気を絞って小さな不良心を試したことがある。

 

それはお昼休みのこと、

 

お腹が痛くなって大便器に入って用を足していた。

 

すると何やら、がやがやと声がするのが聞こえた。

 

どうやらチャンピオンの先輩とその取り巻きがトイレに入って来たのだ。

 

急に心臓がどきどきするのが分かった。

 

用を足しているいるだけだし、特に何かされることはないと分かってはいたものの、

 

どきどきが止まらなかった。

 

先輩たちはいつまで経ってもトイレから出る気配はない。

 

S君のトイレはとっくに終わっていた。

 

もういいや、出よう。

 

そう決心したS君は勢いよく水を流し、

 

ちょっと大きめの声で、

 

「ふーー。すっきりした!」

 

とドアを開けながら、言ってみた。

 

すると、取り巻きの一人が「なんやこいつめっちゃおもろいやん!」

 

と大きな声を出して笑いだした。

 

その時、チャンピオンの先輩は冷たい目でS君を見つめていた。