遭難
3歳の頃、僕は兵庫県の山奥で遭難した。
たった今、こうして朝起きてコーヒーを淹れてブログが書けるのも、あの時たまたま選んだ道が正しかったこと。それがすべて今に繋がっている。もし、仮にもう一方の道を選んでいたなら、恐らく助かっていなかっただろう。
僕の家では毎年正月になると、父方の祖父母と曽父母の家に新年の挨拶に行くという行事があった。
場所は兵庫県佐用町という場所にあり、少し前確か台風の被害が甚大だったことで、よくニュースで取り上げられたりした。
当時はよく雪が積もっていた。
僕が遭難したその日も確か5㎝以上は積もっていたと記憶している。
曽父母の家に行くと言っても特に何をするわけでもなく、2、3時間たわいもない話をしながらご飯を食べ、お年玉をもらって帰るだけで大した思い出も記憶も残っていない。
その時も特にすることがなく家でだらだらと過ごしていると、祖父が「山を見に行こう」と言い出した。祖父はそこに山を所有しており、仕事で使うための木材を見ておきたいとのことだった。祖父は大工の棟梁だった。
言い出した直後は、兄と祖母も行くと言っていたのだが、外に出ると寒すぎたのか急に兄が行かないと言い出した。やがて祖母も行く気をなくし、結局祖父と僕の二人が山へ木を見に行くこととなった。
僕は大好きだった、でっかいゲームボーイを兄から借りて車に乗り込んだ。
20分もすると山に着いた。
祖父は、「ちょっと木を見てくるから車で待っとけな!」といい、タウンエースのドアを強く閉めた。
あたりが薄暗くなったので、僕は少し怖くなった。
気を紛らわそうと思い、ゲームボーイに電源を付けて確かボンバーマンだったかカービィだったか忘れてしまったが、ゲームに没頭することにした。
30分くらい経過したがまだ祖父は帰ってこなかった。
なぜ急にそんなことを思ったのか、未だに分からないのだが、僕は「山奥に捨てられた。」そう思った。
このままでは、この車の中で死んでしまう。
なんとかしなければいけない。生きなければいけない。
こう感じたのを今でも鮮明に覚えている。
しかし、一切泣いたりはしなかった。冷静に帰ろうとそう思った。
そして3歳児の僕の思考回路ってほんとにどうかしていたと思う。
僕がとった選択は走って実家に帰るだった。曽父母の家ではなく。
実家から曽父母の家はは車で3時間かかった。
距離的に言うと200キロ近くあると思う。
まあ、そんな細かい計算が当時できる訳もなく、僕は走って実家に帰ることを決めた。
当時の僕は死ぬもの狂いだったのであろう、タウンエースという車のドアはなかなかに重たかった。3歳児が開けるにかなりの力が必要だ。
車から出た僕は、一目散に実家方面の方角へ走った。
残念ながらここから発見されるまでの記憶が一切ない。
次に記憶しているのは僕が一生懸命走っている途中、後ろから祖父が車で追いかけてきてくれて、運転席のドアを開け「ニコッ」と笑いかけてくれた時だ。
見つかるまでの話は両親や祖父母から聞いた話なので、実際のところは良く分からないが、こんな感じらしい。
祖父が山から帰り、車に僕がいないことが分かった瞬間、死ぬほど焦ったらしい。(まあ、誰だったそうだろう)
少しばかりあたりを探してみたが、見つかる気配がなかったので一旦、曽父母の家に戻ることに。
そして僕が遭難したことを伝えると、全員から大批判を受けたあと捜索が始まった。
とりあえずもう一度山に探しに行く者、周辺を探す者。仏壇に向かってお祈りをする者。
一番責任を感じていた祖父はどろどろになりながら、凍えるような川の中を探していたらしい。
30分くらい自力で捜索したが、見つからなかったのでとうとう消防に連絡をしようとしたその時、周辺で聞きこみをしていた母が小さい子が走っている姿をみたという情報を手にした。
しかもそれは実家のある方角だった。
僕はきちんと来た道を帰っていたのだ。
またこれもあとから聞いた話なのだが、山道を下る途中、二つに分かれる道があった。一方の道は道路に繋がる道。もう一方は更に山奥へと続くいばらの道。
山奥へを続く道を選んでいたなら、恐らくアウトだった。
たまたまだとは思うが僕は生き延びるための道を直感的に選ぶことができた。
全く覚えてないんだけどね。
なんにせよ、あそこで死なななかったのはラッキーだった。
小学生の時は足が速くてモテたし、中学生では野球で全国大会に出場できた。
高校野球部では先輩からいじめにあったがなんとか耐えた。
大学では4年間ひたすらダラダラ過ごしたが、21の時に童貞を卒業できた。しかもJKだったてところが熱いよね。
28歳で未だに自分探しみたいなことをしているが、まあなんとか人間一人食っていけるだけの稼ぎがあるので良しとしよう。奨学金も毎月遅延せずに払っているし。
直感ってほんとバカにできない。って話。
おわり。